書いてる人
名前:バナ
略歴
1986年生まれ。大阪府堺市出身。
20歳:専門学校卒業後東京へ
21歳:表参道の美容室をクビ
23歳:下北沢の美容室をクビ
24歳:日本一下手くそなスタイリストデビュー
27歳:海外に行くため4人部屋のシェアハウス生活で貯金
28歳:100万貯めてフィジー留学→渡豪
30歳:アジアバックパッカーした後帰国
31歳:美容室DearsのFC加盟、当時の売上は18万
32歳:面貸し店舗から移転独立し現在に至る
twitter@banaocreation
→日々更新されます。
Instagram:@oreyade_banayade
→ストーリー多め。
note:@orebana
雑記はこっちに書いてます。
それではもうちょい詳しく、少し長めの人生のハイライトです。
初のアルバイトは携帯電話の組み立ての内職は一つ2円。
高校時代はサッカー部(応援要員)でバイトが出来ず、どうしてもお金が欲しかった僕は『携帯電話のレプリカの組み立て』という、高校生らしからぬ内職のバイトを始める。
ひとつたった2円の組み立てを積み重ねて、4000円の帽子を買ったのは良い思い出。
新聞配達時代
どう頑張っても時給400円程度にしかならない内職の仕事を辞めて、早朝の新聞配達を始める。(もちろんサッカーも継続。)
内職に続き完全歩合制の仕事なので、いかに効率よく仕事をこなすか?という事を考えるのが得意になる。
月収は3万円に。
初の給料で買ったのはエアフォース1。
バイトをかけ持ち。
サッカー部(応援)を無事勤め上げ引退。ふぐ鍋屋さんでバイトを始めるも『店長がフグ調理の免許を持っていない。』ことに驚愕する。
鍋シーズンの連勤に加え、高速新聞配達で歩合も伸び、高校3年生にして最高月収は18万円。
専門学校時代
特に目立った成績ではなく、唯一と言っていい功績は学内選考を突破してTONI&GUYコンテストの全国大会に出場。
3月の美容師免許の試験はインフルエンザで40度近い熱を出し、患ったままフェードアウトするように卒業。
(無事合格したが、記憶はマジで無い)
大阪から東京へ
表参道の美容室に就職したため、夜行バスに揺られて上京。
渋谷のスタバでスクランブル交差点を見下ろしながらケツメイシの『東京』を聞き号泣する上京初夜を過ごす。
上京の理由は『東京を見ずに死ねない為。』言い換えれば若気の至り。
表参道美容師時代
暗黒の1年間精神と時の部屋時代。
退社時間は早くて24時30分。
週2回程度、不定期に開かれる『オーナーの有難い話』は深夜2時まで続くも、毎朝8時から朝練は変わらず(平均睡眠時間4.5時間)で常に睡眠不足解消のため、週に一回は家に帰らず、表参道のマクドナルドで仮眠し出勤。
実務では、お客様に触れる事は許されず、フロアに立つ事も許され無いまま1年間掃除とシャンプー練習しかせずに、フェードアウト退社。(事実上のクビ)
覚えた技術はタオルの効率的な干し方。それでも月収は14万5000円。全く使えない給料泥棒。
退社して無気力に
6畳一間の部屋で、モバゲ→コンビニ→モバゲー→コンビニ→モバゲ→AV鑑賞→コンビニ。
を繰り返すだけの日々を1ヶ月過ごす。診察しなかったけど完全に鬱。
ひたすらに西を目指す
ああ、俺はこのまま大都会東京に埋もれてしむうのか。などと考えてた時にふと頭をよぎったのが『こち亀の両津勘吉が京都から東京まで自転車で行くエピソード』
これだ!と、深夜2時から自転車に跨り西へ。ちなみに、時期は3月。
雪の箱根峠を乗り越えたら身体に力が湧いてきて、3日目は浜松〜大阪間300kmを22時間かけて走破。
人間やればできると思いうつ状態を克服。
しかし、帰りは親の金で東京へ自転車を郵送。
フリーターで給料30万円
東京に戻り動く気になったものの、どうしても美容師で再起を図る気になれなかった。一種のトラウマのような。
でも生活するにはお金が必要なので、ドラッグストアと居酒屋をかけ持つバイト生活を始める。
月収は30万円!
しかし、金で幸せは買えなかった。
美容師復帰後1ヶ月でクビ
4ヶ月が過ぎた頃、猛烈にバイトに行きたくなくなる。と、同時に美容師に戻りたい欲求が身体に溢れる。
すぐにバイトを辞め、下北沢の美容室で働き始める。
が、しかし現場では空回りし噛み合わない自分。
『君は人に慣れた方が良い。うちは個人経営で1日の客数も限られてくる。大型店に行ってみてはどうか?』
の、アドバイスと共に再び無職に。
(試用期間で解雇)
全てを投げ出し沖縄へ
試用期間の給料も支払われると知った僕は(本当に感謝しています)、フリーター時代に買ったパソコンを叩き翌日の便で沖縄へ。
ひとり慰安旅行。
一眼レフ片手に3週間沖縄を放浪。
面接に合わせて再び上京
再び働く気力が出てきたので、沖縄から東京に履歴書を送り面接の日程を決める。
履歴書がなぜか沖縄の消印でバカンス感満載のため、無事不採用。
その後、東証一部上場の美容室に無事入社し、吉祥寺店に勤務。
給料は14万円になり、フリーター時の半分に。
1年でスタイリスト?
会長は絶対の一代で築き上げられた美容室で勤務。
『会長』の鶴の一声で、本社で早期教育技術アカデミーが始まった。それは、2年目を対象に1年でスタイリストに昇格させるというもの。
幸か不幸か、一つ上の先輩が辞めたので実質1年目僕もアカデミーに通う事に。
『会長が決めた案は絶対に成功させる。全員がスタイリストにならないと会長の顔に泥を塗る事になる。』
という謎の会社的圧力が加わり【実力以上】の謎の成果が出て、アカデミー受講者は【全員がスタイリスト試験に合格】するとゆう異例の事態に。
『名ばかりスタイリスト』が誕生。
日本一下手くそなスタイリスト
カリキュラムを卒業し、肩書きはスタイリストになったが、どれほど下手くそだったかというと、
『モデルカットは3人しかしてない。』
状態だった。
一年で詰め込んだ物をしっかり消化させる為に、(百貨店に勤めてたので)百貨店の従業員を捕まえては、毎晩モデルカットに明け暮れる。
そしてスタイリスト試験合格から約一年かけて本格デビュー。
その後結局丸6年勤めた後、円満退社。
1DKから1Bへ引っ越し
私生活では退社の1年前から海外に行く為に貯金を始める。
まず家賃を減らす為に、1DKのマンションから、15人が暮らすシェアハウスへ。
半分は外国人、部屋は4人部屋で間取りは二段ベットのスペースだけ。僕は1B(ベッド)と呼んでいた。
家賃79000円→34000円
退社して業務委託と面貸しへ
出国までの1ヶ月半は、同時流行り出していた業務委託の格安サロンで日払いのバイトや、前から担当していた友達は知り合いの美容室で面貸しで担当し、出国の準備を始める。
業務委託の仕組みや来店客と価格の関係性等を少しでも感じれたのは良い経験だったと思う。
フィジー語学留学へ
出国前にこのブログを開設する。
年が明けて2015年、まずは語学留学の為にフィジー共和国で3ヶ月過ごす。
常夏の楽園『世界一幸福度の高い国』にも選ばれたフィジーの裏と表を垣間見ながら、勉強をする。
渡豪して海外美容師と養鶏場のおじさんになる。
シドニーで6ヶ月美容師。
マーガレットリバーで4ヶ月養鶏場で卵拾い。
パースで美容師をしながら7ヶ月。
メルボルンでも6ヶ月美容室で働いた。
(同一の事業主のもとで6ヶ月以上働けないVISAである)
その間に、財布盗難、交通事故、交通裁判、ギックリ腰、車上荒らし、無免許運転で誤認逮捕、裁判所出廷。
と、トラブルが絶えないオーストラリア生活や、英語圏で美容師として働く為のアレコレをブログで情報発信する。
半年に一回、引っ越しをしたので自然とミニマリストになる。